「東電が撒いた放射能を、どうして我々が引き受けなくてはならないのか」という疑問を持つ方へ

2011年3月11日の地震津波を起因として、福島第一原子力発電所放射能漏れ事故が発生しました。
この事故の検証と対応は現在進行形であり、天災であるのか人災であるのかの議論すら行われている最中です。多くの事故で共通していることですが、事故の原因が一つに特定されることはほとんどありません。複合的な要因が重なって大事故は発生するのです。そして「キミたちが要因である」と指摘された人たちは、それを全力で否定してきます。この事故の本当の原因が特定されるのは、関係者が全員死亡した50年後とか100年後になるのかもしれません。

ネット上にはいくつかの意見がありますが、その中で気になった意見があったため今回のエントリを書きました。
その意見とは、

「東電が撒いた放射能を、どうして我々が引き受けなくてはならないのか」

という疑問です。
もしこのような意見を持っている方がいらっしゃれば、ちょっとだけ考え方を変えることをお勧めしたいと思います。

この意見を聞いた時に感じたのは、交通事故や医療事故、労働事故などの事故によって家族を失った人の考え方に似ているということです。これらの事故で大切な家族を失った直後は、加害者側に対して強烈な怒りを持つか、「どうして自分は救えなかったのか」という自責の念を持つかの二つに分かれます。タイトルに書いた意見を持つ方たちは、どちらかというと前者に近い感情を持っているのではないかと思います。その感情は理解できますが、この感情を長期間にわたって抱くことはお勧めできません。その理由は幸せになれないからです。

例えば交通事故でお父さんを失った家族は、被害者に対して「お父さんを返せ」という感情を持ちます。当然ですよね。理不尽な事故で突然家族を失ってしまったのですから。でも重要な事実は、お父さんは返って来ないのだということです。その事実を受け止めた上で、残された家族の将来を考えなくてはなりませんが、怒りが感情の大部分を占めていると将来のことを考えられないのです。これは、「お父さん抜きの将来を設計すること」と、「加害者に対する怒りの感情」を思考の中で同居させることが、とても強烈なストレスになるからではないかと考えています。そして客観的には、「お父さん抜きの将来を設計すること」が家族の幸せへの近道です。

私の基本的な考え方は「生きている以上は幸せになる」ということです。これを実現するためには、取り戻せない事実に対して怒りの感情を持ち続けるよりも、今の現実の中でいかに将来を設計するかを考えるほうが圧倒的に有利です。
「東電が撒いた放射能を、どうして我々が引き受けなくてはならないのか」という疑問を持っている方にまず受け入れてもらいたい事実は以下の2点です。

(1) 福島第一原子力発電所の事故によって放射性物質が放出されている
(2) これらの放射性物質は事実上回収することはできない

そして考えて欲しいことは以下の2点です。

(1) 自分たちの家族の幸せは何であるのか
(2) その幸せを手に入れるためにこれから何をするのか

大切なことは、失われた未来に対する怒りの感情を持ち続けることではありません。今の現実の中で最大の幸せを手に入れる方法を考えて実行することです。

図らずも福島県民の方たちは強制的にこれらの問題について考えなくてはならなくなりました。考えた結果、県外に転出した方たちもいらっしゃれば、県内で生活を続けている方もいらっしゃいます。
原発の是非について声を上げるのは、家族の幸せの次で良いと思うのです。