お金は持っているだけで価値がある

東京都の猪瀬直樹知事が徳洲会グループから5000万円を受領していたとして辞任しました。5000万円は「借りていたモノで既に返した」「お金には手を付けていない」ということです。どういった経緯があったのかという詳細な話は、今後出てくるんだろうと思います。

猪瀬氏はどうして使いもしない5000万円を受け取っていたのでしょうか?だって使う予定すらないのであれば、受け取る必要なんかなかったですよね?本当に使う予定がなかったのか、使う必要がなかったのかわかりませんが、改めて考えるとお金の価値ってすごいと思います。というのも、

「たとえ使わなかったとしても、5000万円の現金が手許にあるということに価値がある」

ということだから。


私の母親の話です。私の母親は地方で年金生活をしています。父親は既に他界していて、私たち兄弟も地元から離れて生活していますので一人で生活しています。年金の金額もさほど多いわけではありませんが、地方で一人暮らしをする分には贅沢をしなければ生活できるくらいの金額です。もともと裕福な家庭ではなかったので、貯金もそれほど多くはありません。

そのような生活をしている母親に、私はまとまった金額の現金を預けています。このお金は母親にあげたわけではありません。何かあったら自由に使っていいと言っていますが、今のところ全く使っていません。でも、使わなくてもこのお金には十分な価値があります。

どういうことか。

ある日、母親が「今日は体調が悪いな」と思ったとします。もし年金のお金しかなかったとしたら、「お金がもったいない」とか「食費が無くなる」といった理由から病院に行くのを避けてしまうでしょう。(※実際は食費がなくなるほど困ることはない。)もっと言えば、「もし病院に行って大きな病気が見つかったら、治療費がかかってしまう」と考えてしまいます。論理的にはおかしな話ですが、きっとこのように考えてしまう人です。自由になるお金があることで、「体調が悪くなったら病院に行く」という選択肢が得られるだけでも、私が預けているお金には価値があります。つまり、自由になるお金があるということは、それ自体に大きな意味があるということです。


話を戻します。

猪瀬氏は5000万円というお金を受け取りました。法的に問題があるのかは別にしても、意思決定に対する選択肢を増やしたり、精神的な余裕を得るという価値を得ることはできました。現金を使ったかどうかだけではなく、ここで受け取った「価値」にも意味があると思うのです。

「貧すれば鈍する」という言葉があります。私たちは余裕がなくなると、ロクな選択をしません。できるだけ多くの選択肢を得るためにも、自由になるお金を手許に置いておきたいものです。