私が三陸海岸で見てきた現在と未来(後編)

前回のエントリ「私が三陸海岸で見てきた現在と未来(前編) - ITエンジニアの社会学」から続きます。

今回訪問したのは以下の街です。

地図を見てもわかりますが、三陸海岸の街の多くは湾の内側にあります。平地といえるのは湾の内側しかなく、そこに街ができて発展していったのでしょう。それ以外の地域は“山”と表現するのが適切な地形です。このように、街と街が山によって分断されているのが三陸海岸の特徴です。ここで、“街”と表現していますが、人口でいえば大船渡市が約40,000人、釜石市が約40,000人、大槌町が約13,000人、山田町が約17,000人、宮古市が約60,000人と、全部合わせても東京都台東区や神戸市東灘区に満たないくらいの人口です。

ところで、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災でも、多数の建物が倒壊して多くの犠牲者が出ました。そしてほとんどの公共交通機関も被害を受けましたが、JR線がおよそ3ヶ月で復旧しており、私鉄も6ヶ月以内には復旧、早いところでは1〜2ヶ月で運行を再開しています。ところが、三陸海岸の鉄道は今も復旧していません。

写真は津波の被害を直接受けていない盛駅の様子です。線路は錆びていて信号も消えたままです。

ここに経済合理性の問題があるように感じました。阪神・淡路大震災で被害を受けた神戸市は、人口も多くて経済活動も活発な都市です。京阪地域との繋がりが強いばかりでなく、中国地方や九州地方と関西・東海・関東地方を結ぶ経路上に位置しています。神戸市の交通を1日でも早く復旧させることは、経済的にとても大きな意味がありました。しかし、三陸海岸にはそこまでの経済効果はありません。1日も早く復旧させることを目標に、議論の余地すらなく元の場所に復旧された神戸市の交通と、将来の街の姿すら決まっておらず、どこに線路を敷設するかすら確定していない三陸海岸の違いもあると思います。また、山によって街が分断されているため、復旧作業の効率がとても悪いという問題もあります。街としての姿を取り戻すには、もっともっと時間が必要でしょう。

三陸海岸の街は津波で大きな被害を受けましたが、街全体が崩壊したわけではありません。低地の建物は大きな被害を受けていますが、高台の建物はほとんど被害を受けていないのです。盛駅周辺のように、ちょっと内陸に入ると普通の町が広がっています。でも、そんな街同士も生活基盤は繋がっていて、自宅が津波の被害に遭わなくても、職場が失われたり、学校への交通機関が失われたり、日常生活に必要なモノを買うお店が失われたりしています。今のような復興ペースでは、津波から助かった人たちもどんどん疲弊していってしまい、安定した生活基盤を求めて移転してしまう人も出てくると思います。そして移転していった人たち全員が、元の街に戻ってくることはないでしょう。そうして街は少しずつ衰退してくことになります。だからこそ、一刻でも早く街を元に戻さなければならないのです。

地震で同じように甚大な被害を受けた神戸市は、“経済合理性”という力によって驚異的なスピードで復興しました。もちろん、地元の方たちの多大な努力と忍耐があったことはわかります。でも、三陸海岸には“経済合理性”という力は残念ながらありません。地元の方たちの努力だけでは、明らかに力が足りないのです。

ということで今回の結論。

「我々が注目しないと被災地は復興できない。そして急がないと取り返しがつかない。」