納得できないけど納得できる話

「あぁ、そうなんだ〜」と気づかされた記事がありました。

ツイッターでもフェイスブックでもそうだが、
よほどのバカでない限り、
わざわざ違う意見の人に絡んだりはしない。

ネット世論と選挙結果がなぜ違いすぎると感じるのか? : 好きを仕事にする大人塾=かさこ塾塾長・メッセージソングライター・キャリア教育講演家かさこブログ

私はこの記事で触れられている「バカ」のほうに分類されるタイプです。というのも、自分と異なる意見やバックグラウンドを持つ人のほうが興味があるんですよね。「どうして、そのような結論になったんだろう?」という点に純粋に興味があるから。それに、自分と同じ意見を持っている人よりも、自分と異なる意見を持っている人からの情報のほうが、学ぶ要素がたくさんあると思うんですよね。

人が何かの「意見」を出力するためには、

(1) 思考の基盤となる情報の入力
(2) 思考
(3) 結論(意見)の出力

という手順を辿ります。そのため、自分と異なる意見を持つ人は、

(a) 自分が保有していない情報を持っている
(b) 思考のプロセスが異なる
(c) 優先する価値観に差異がある

のどれかだと思います。

もし(a)なのであれば、どのような情報を持っているのかを知りたいですし、自分ももっともっと勉強しようと考えます。もし興味がある分野で、情報の出典となる書籍や文献があるのであれば、その出典にも触れてみたいです。もしかしたら、自分の結論(意見)も変わるかもしれません。もし(b)なのであれば、どのような思考プロセスでその結論に辿りついたのかを知りたいです。私が完全に論理的かつ合理的な判断をしているとは限りませんから、将来にわたって正しい判断をするための勉強になると思います。(c)は思想・信条のようなものですので議論になる余地は少ないのですが、世の中にはどのような価値観を持っている人がいるのかを知る貴重な機会になると思うからです。

もちろん同じ情報が入力されれば、常に同じ結論(意見)が出力されるとは限りません。世の中には不確定要素がたくさんあります。入力された情報の完全性や信頼性の重みづけが異なることもあります。その点においても、「何故、この人はこのような結論に達したんだろう?」という点は、本当に純粋に興味があります。だから、自分と異なる意見を持っている人の情報に積極的には触れるようにしています。その結果、結論には納得できないけど、その結論に達したプロセスは納得できるということもよく経験しています。(この場合の意見の差異は、(c)であることが多いんですけどね。)


引用元の記事で原子力発電所のことに触れていましたが、福島第一原子力発電所の事故が発生した当時の管首相、枝野官房長官、海江田経済産業大臣は大変な苦労をされたと思います。たくさんの情報が入ってきた後で彼らの判断を批判することは簡単ですが、事故当時のように情報が少なく、不確定要素が多い中で、彼らが「どのような思考プロセスで、何を優先して結論を出して行動したのか」という点はとても重要だと思うんですよね。そして、それらの意見に触れることができる書籍が下記です。


東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと (幻冬舎新書)

東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと (幻冬舎新書)

叩かれても言わねばならないこと。

叩かれても言わねばならないこと。

『海江田ノート』原発との闘争176日の記録

『海江田ノート』原発との闘争176日の記録

また当事者の書籍ではありませんが、もう一冊紹介。


池上彰の講義の時間 高校生からわかる原子力

池上彰の講義の時間 高校生からわかる原子力

海江田氏と池上氏の書籍はまだ読んでいないのですが、特に池上氏のこれまでの著作は「私は皆さんに情報を提供しますので、結論を出すのは読者の皆様ですよ」という立ち位置でしたので、本書でも冷静に非当事者の視点が得られるのではないかという期待を込めての紹介です。

重要な局面では、優先する価値観や哲学が結論を大きく変えてしまうことが多いので、日頃からたくさん会話をしてお互いの価値観を共有することは大事だなぁと思います。

これから社会に出ようとする15年前の自分へのメッセージ

12月1日、企業の採用活動が開始されました。

私が大学生の頃、インターネットを使った就職活動は行われていませんでした。セミナーの申し込みはハガキで申し込んでいましたし、企業からの連絡は自宅の固定電話に来ていました。携帯電話を持っていた学生が少数派という事情もありましたが、「電波状態の悪い携帯電話で電話を受けることは失礼である」とか「携帯電話を持っている学生は遊んでいると思われてイメージが悪い」とも言われていたためです。企業からの電話はいつかかってくるかわからないので、自宅から一歩も外に出られないという学生も多くいました。社会人を経験した今となっては「いやいや、考えすぎでしょ。」と思えますが、当時の学生はとても不安でいっぱいでした。だから今の学生も不安でいっぱいだと思いますし、都市伝説のようなことも信じられたりしているんだろうと思います。先が見えない未来に対して不安を抱くのは当然のことです。だから、その不安はしっかりと受け止めて、いろいろなコトをたくさんたくさん考えると良いと思います。

あちこちのブログの記事を見ると、様々な方が就職活動中の学生に向けたメッセージを発信してます。私も何か書きたいと思いましたが、私自身はいわゆる新卒の就職活動を経験したことがない上、採用活動に関わってからも随分時間が経過したので、15年前の自分自身に向けたメッセージを書きたいと思います。

仕事は人生の中の一部でしかない

目の前に人生を左右する大きな選択があると、それに目が奪われてしまい、その先にある事が見えなくなってしまいます。「自分はどういう仕事がしたいのか?」という疑問を持つ前に、「自分はどういう人生を歩んでいきたいのか?」という点を考えるべきです。仕事は人生を構成する中の一要素にすぎないからです。「40歳くらいになったら地元に戻って生活したいな」と考えているのに、首都圏の地方公務員になろうとするのは間違った選択です。*1人生の目標が定まっていないのであれば、まずは目標を決めましょう。そして、これから就職しようとする仕事や会社が、その目標への経路上に存在しているのかをじっくり考えましょう。その結果、人生の目標を修正するのもいいと思います。

自分が頑張れば目標を達成できると考えるのは大きな勘違いです。世の中に出てみると、自分の力だけではどうにもならないことがたくさんあって、それらの影響をたくさん受けます。その影響は悪いことだけではなく、これまで自分が知らなかった新しい世界を知るきっかけになることもあります。その時には、また目標を修正したらいいだけですからね。

わりとどうにかなる

目標を決めて、それに対して一生懸命進んでいくのもいいと思います。でも、その途中で失敗したからといって挫ける必要はありません。結果的になんとかなります。
事実、過労 → 病気 → 休職 → 転職と経験してきましたが、今のところ結果的になんとかなってます。挫折しなかったら、もっと素晴らしいものが待っていたかもしれませんが、待っていなかったかもしれません。得ることができたかどうかわからない失ったものに執着しても良い結果は得られません。

ただし忘れてはいけないことが2つ。

(1) 目標を常に持って、最善と思える戦略を選択すること
(2) 挫折した時には、周囲に対して適切に助けを求めること

結果的になんとかなるためには、それなりの準備が必要なことも忘れないでくださいね。

今しかできないことを経験する

今しかできないことを経験しましょう。
「学生の本分は勉強である」とか「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか言う人がいます。でも気にしないでください。

学ぶことは重要ですが、それは大学の勉強から得られることだけではありません。世の中には、「20歳代前半でなければできないこと」や「学生という立場でなければできないこと」、「今の時代でなければ経験することができないこと」がたくさんあります。
具体的な一例を挙げるなら、企業見学やインターンシップは学生の時しか経験することができません。一度就職してしまうと二度と受け入れてはくれないのです。当たり前ですよね。競合他社の社員を、自社の営業情報に触れさせてくれるお人好し企業はありませんからね。同じように「今しかできないこと」は、世の中にたくさんあります。「将来役に立つこと(←本当に役に立つかわからないこと)」を経験するよりも、「今しかできないこと」を積極的に経験しましょう。その経験は、きっと貴重な財産になります。ちなみに、"新卒"での就職活動も「今しかできないこと」であることを忘れないでくださいね。

あと、"苦労"はわざわざ買わなくても、数年したら望んでいなくても苦労することになるので心配はいりません。


このエントリは、あくまで15年前の自分に向けたメッセージです。未来のことは誰にもわからないですし、その結果に対して誰も責任をとってくれるわけではありませんからね。でも、たとえ失敗したとしても、それが自分で考えた結果なのであれば納得できるんじゃないかな、と思います。

*1:実はやっちゃうところでした。

ベンチャー企業が大企業に勝つ方法

タイトルは若干釣りです。
私は東証一部に上場している大企業に、数年間所属していた経験があります。辞めましたけど。
そこで学んだことは、

ベンチャー企業が、大企業と同じ土俵で戦っても勝てない」

ということです。これを身をもって知ることができただけでも、大企業で働いた価値があるかもしれません。(他にも学んだことはたくさんありますよ。)


少し前の話になりますが、食品卸大手企業がイオンに対してビールを原価割れで納入していたというニュースがありました。この件に関してはイオンは反論していますが、大手企業が持っている流通チャネルの大きさを考えると、商社やメーカが沈黙するのも理解できます。結局は持ちつ持たれつの関係なんですよね。私が勤務していた会社でも、詳細は書けませんが、信じられないくらいの価格で製品を仕入れることができていました。その価格は、その辺の中小零細企業が努力したってとても叶わないくらいのレベルです。大企業は、多額の販売費や管理費等の間接費がかかったとしても、仕入価格だけはどうしようもないくらいの価格優位性を持っているのです。だから、一般市場で流通している商品を、「最近起業しました」みたいな会社が取り扱ったところで、とても価格では敵わない。仕入だけでなく、物流部分についても規模の原理が働くから、配送価格だって敵わない。だから、仕入が伴う商売にベンチャー企業が参入しても勝てない。もし本気で勝負をするつもりなら、数十億とか数百億の現金を積んで勝負しないと絶対に勝てない。


ここは議論があるところですが、大手家電量販店が街の電気屋さんを潰したということが言われています。大手家電量販店は「低価格こそ正義である」というルールを作って勝負をしました。大量仕入・大量販売を約束することで、仕入価格に対する発言権を獲得しています。結果的に、街の電気屋さんではとても敵わない価格で商品を販売することができるようになり、街から電気屋さんは無くなっていきました。しかし、ここでAmazonが登場します。外資系企業でありながら、本やDVDといった商品をメインで扱いつつ家電販売にも参入してきました。Amazonは「低価格こそ正義である」というルールの中に土足で殴りこんできて勝負を仕掛けてきたのです。これまで低価格で販売するためには、集客するための実店舗と顧客対応するための店員さんが必要でしたが、AmazonはITを使ってそれらの設備を最小限に抑えて運営しています。今のところ仕入価格に対するAmazonの交渉力は、大手家電量販店ほどないと思いますが、今後はどんどん交渉力を付けていくことでしょう。

しかし、Amazonは"結果的"に「低価格こそ正義である」という土俵で勝負をすることになりましたが、特別にそれを目指したのではないと感じています。Amazonの営業さんとお会いする機会があったのですが、彼らの考えていることは「世界で最もお客様を大切にする企業になる」ということです。徹底して顧客志向なのです。Amazonでの販売価格は、価格.comで調べても決して最上位ではありません。でも、顧客が満足する価格で、顧客が満足する納期で、顧客が満足する品質で商品を届け、もし不満があったら返品を受け付けるという姿勢です。だから、決して「低価格こそ正義である」というルールで戦っているわけではないんですよね。あくまで「結果的に低価格になった」というだけで。もし顧客が価格よりも大切な価値観を持つようになったら、販売価格は上昇していくかもしれません。

Amazonは海外で稼いだ豊富な資金を持ち込んで参入してきたため、これから起業するベンチャー企業と比べるのは無理があります。しかし、これまで「低価格こそ正義である」という業界における勝負のルールを変える力を持ちこんできたことには、大きな意味があります。

ベンチャー企業で大企業に勝ちたい」

この考えを持った時、既に大企業と同じ土俵に乗り、大企業の作ったルールで勝負をしてしまっていると思います。彼らに有利なルールで戦っても、勝てる可能性はうんと小さいでしょう。
新しい土俵と新しいルールを作ることが、これからのベンチャー企業に求められていることなのかなぁと漠然と考えています。

博士後期課程に進学しますか?という話

※2012/11/21追記:「"博士課程"が前期か後期かわからない」というご指摘をいただきましたので、「博士後期課程」に変更しました。最終段落に「教育環境」という文言を追記しました。

奨学金1,500万円の取り立てにあう高学歴ワーキングプア-高学費と就職難が大学院生の心身壊すという記事がありました。今日はちょっと厳しめの意見で進めたいと思います。私は博士後期課程に3年間在籍して博士(工学)の学位を取得しています。ここでの経験も踏まえてということで。

1. 今の社会制度では、博士後期課程への進学はすごく慎重に考えたほうがいい

「高等教育の機会はできるだけ増やしたほうが良い」という意見を持っていますが、博士後期課程への進学だけは慎重に考えたほうが良いという立場です。これは以下の理由からです。

博士後期課程に進学したからといって、博士号が取得できるわけではない

私が博士後期課程に進学した当時、私が進学した大学での博士号取得率は50%と言われていました。つまり半分の学生は、博士後期課程を出ても学位を得られていないということです。博士後期課程は「単位取得退学」という制度があり、在籍中に学位を取れなくても卒業後2年間であれば在籍しているのと同じ条件で論文審査をしてもらえますが、ただでさえ多忙な研究生活と会社生活の中で、学位論文を執筆できる余裕はありません。そのため、単位取得退学をした後に学位を取得できるのは、研究活動は終わっていたけど事務的なスケジュールの都合で審査に間に合わなかった人たちだけでした。大学によって条件は様々ですが、博士論文を提出して審査をしてもらうためには、「査読付き論文に○本以上掲載されること」とか「海外学会で○回以上発表すること」などの条件があります。これらの条件を満たす過程で、「論文の査読にすごく時間がかかっている」とか「大学内の審査スケジュールにうまく乗れなかった」などの理由で、適切なタイミングで審査してもらえないことがあるのです。もちろん学会に提出した論文がリジェクト(掲載拒否)されることもあるのですが、まともな指導教官の下で適切に指導を受けていれば、博士後期課程後半で執筆した論文がリジェクトされることはほとんどありません。(まともな教官であれば、提出する学会の選定や、リジェクトされるレベルの論文かどうかの判断ができるからです。博士後期課程前半であれば、ダメもとで出すことはありますけどね。)このように、博士後期課程は博士前期課程(修士課程)までとは比べものにならないくらい厳しい道なのです。修士課程までは指導教官の指示に従っていれば学位が取れた分野であったとしても、博士後期課程では強力な意志を持って取り組まないと、そのまま期限切れで単位取得退学&2年間経過という結果になるのです。

すごくお金がかかる

最初に紹介した記事にも書かれていたことですが、博士後期課程への進学はとてもお金がかかります。私の場合は親が定年になってしまったため、学費や生活費の援助は期待できませんでした。でも奨学金を借りるかというと、卒業時の負債額を考えると現実的な方法とも思えません。学位が取れる保証もなく、就職できる保証もない中で500万円近い負債をかかえることはできなかったからです。そこで私が選んだ道はアルバイトでした。とはいえ、研究生活優先の中で時間を決めて働くことはできません。そこでソフトウェア技術者を募集している会社に応募し、「アルバイトとして雇って欲しい。できれば在宅で働きたい。不満だったら報酬はいらない。」という話をし、その条件で仕事をいただける会社の仕事をしていました。この点は本当に運がよかったと思います。学費と生活費が確保できたとはいえ、平日は研究活動、夜と休日は在宅アルバイトという生活で、3年間で休みが全く無い生活でした。それでも、大学からも会社からも理解が得られていたため、とても恵まれていた立場だったと思います。両親からの学費の援助が得られないのであれば、相当の覚悟が必要です。

親も自分も年をとる

両親からの援助とも関係してきますが、両親も年をとります。博士後期課程に進学する年齢の学生の両親は定年を迎えている場合もありますので、学部時代のように学費の援助を期待することはできません。また、両親が年老いて確実に衰えていくいく様子を見るのは、想像以上に不安になります。場合によっては大きな病気をしてしまうこともあるかもしれません。そのような時に、もしかしたら自分の夢を諦めなくてはならないこともあります。自分自身も年をとります。おそらく人間の心身のピークは20歳代だと思いますが、この期間を完全に研究生活に注ぎ込むことになります。学位が取得できたとしても、その時には確実に心身のピークから下り坂に差し掛かっている時です。同級生は5年〜10年も早く社会で活躍しています。特に民間企業への就職を考えているなら、そのタイミングで初めて社会に出ることになるのです。若さというのは、想像している以上に貴重な財産なのです。

博士号を取得したからといって何かが劇的に変わるわけではない

最も誤解されていると思われる点に、「博士号を取ったら研究者として活躍できる」ということがありますが、そんなことはありません。博士号は国家資格ではないため、それを持っている人だけに許された業務があるわけでもなく、逆に学位を持っていなくても研究職に従事することはできます。(現実問題として、大学等の研究機関に就職するために博士号の保持を条件にしているところがあり、スクリーニングの基準として利用されることはあります。)私も博士号を取得したからといって、何かが特別に変わったことはありませんでした。ただ、博士後期課程在学中の貴重な体験は今でも役に立っていると思います。もし「博士号」という学位だけを求めて博士後期課程に進学するのであれば、それは止めたほうがよいと思います。日本の社会では、博士に対する偏見がたくさんあります。特に「研究バカで社会不適合」という烙印を押されることがあり、むしろ邪魔に感じてしまうことのほうが多い印象があります。私は名刺にも記載していなかったため、同僚の中にも私が博士号を持っていることを知らなかった人は多かったと思います。

2. 学ぶ意欲のある人に、平等に教育機会を与えるというのは実は幻想

学ぶ意欲のある人に平等に教育機会を与えるという理念は素晴らしいと思います。でも現実は違います。

お金の問題だけでなく、様々な要因で教育機会を諦めなくてはならない人はたくさんいます。博士後期課程への進学で悩むことができるのはとても幸せな立場です。本当は大学への進学を希望していたとしても、様々な問題で進学を諦めなくてはならない学生はたくさんいます。もし救済が必要だとすると、学ぶ意欲があるのに大学に進学できない学生を救うほうが優先順位は上です。博士後期課程への進学を希望する学生の支援を検討するのは、大学進学を希望する学生の支援体制が整った後でも十分です。

何故か?

先に挙げた記事にもあったように、博士号取得者の進路は極めて厳しい現実があります。つまり社会の受け入れ体制が整っていないまま、博士が大量に生産されているのです。博士後期課程進学者を増やすためには、博士を社会で受け入れる体制を整えることが先です。受け入れ体制が整っていない社会に、大量に博士が放出されるほうが不幸な結果を招きます。これを解決するための一つの方法が、高等教育を受けた人を社会に増やすことだと考えています。裾野が広がれば、自然とその上の教育を受けた人も必要とされるでしょう。そのため、(1) 高等教育を受けた人を増やす、(2) 博士を社会で受け入れる体制を整える、(3) 博士後期課程進学者を増やす、という順番で進めていくのが現実的なのです。

そもそもで言えば、博士後期課程への進学を進路の一つに入れることそのものがとても恵まれていることなのです。世界を見れば、そのような教育を受ける機会はおろか、そのような教育機関の存在すら知らない人がたくさんいます。生まれた時代によっては、そのような進路を断念しなければならない人も多かったでしょう。この時代の、この日本の、少なくても大学に進学することが許される家庭に生まれただけでも、相当程度に恵まれているのです。

理念としては素晴らしいと思います。でも、受け入れ体制の整っていない世の中に博士を大量生産する前に整えなければならない様々な問題があるという点でも、博士後期課程の進学希望者を救済することが喫緊の課題であるとは思えません。

3. 博士後期課程に進むことができた運のいい学生の皆様へ

博士後期課程に進学できた学生の皆様は本当に運がよくて恵まれた人たちです。きっと今は目の前にあること、学位を取得することだけに精一杯でしょう。私もそうでした。でも、そうやって過ごしているときっと苦労することになると思います。

皆さんは博士号を取得した後のことを真剣かつ具体的に考えていますか?「今の大学に残れればよいかな」と考えているのであれば、具体的にどのポストに就くのかを真剣に考えていますか?そのポストはあなたが学位を取った時に空いている見込みはありますか?
民間企業に行くのであれば、目的とする会社に対して行動を起こしていますか?研究職を望むのであれば、就職を希望する企業や研究機関の方と学会で会うことがありますよね。そのような時に積極的に話を聞いたりしていますか?
海外への就職を希望しているのであれば、その国で生活基盤を整えるための方法を調べていますか?

企業社会は大学と違って、頑張っていれば結果が得られる場所ではありません。とてもたくさんの不合理と不条理で出来上がっています。そのような社会の中で上手に行動できることも、皆さんに求められている能力の一つであるということを、記憶の片隅にでも置いておいて欲しいのです。

4. 博士後期課程に進学する学生を増やすためにはどうすればよいのか

社会を発展させていくという意味でも、博士後期課程のような教育機関で教育を受けた人は必要でしょう。でも大きな問題が2つあります。一つはお金の問題で、もう一つは社会の受け入れ体制の問題です。

ここでお金の問題を解決しようとしているのが現在の動きです。でも卒業後の受け入れ先が無いことで、博士が供給過剰になってしまうという問題が発生しています。そこで国策として博士を増やそうというのであれば、企業の中から博士後期課程での教育を望んでいる人を受け入れてみてはどうでしょうか。この時の学費は国が援助するということにして。

ここではきっとこんな意見が出てくると思います。「どうして民間企業の人材に対して、税金から国が援助しなければならないのか」という疑問です。でも、国策として博士を増やそうというのであれば、どうして企業に所属していない学生には援助が許されて、企業に所属している学生には援助が許されないのでしょうか?企業に所属していない学生もいずれ就職していくことを考えれば、結果的には変わりませんよね?しかも「博士」という学位を与えることができるのは、文部科学省で認められた教育機関だけです。民間企業の教育で博士号を与えることはできません。しかも企業からの派遣で受け入れられるのであれば、博士号取得後の進路も心配ありません。需要の数だけ供給する体制が整うからです。民間企業の中に博士が増えていけば、自ずと博士の評価も正しく行われるようになるでしょう。(その結果「やっぱりいらない」となるかもしれませんが、それは教育機関側が努力して解決しなければなりません。)

私が学位をとったのは10年くらい前の話なので、今の教育環境がどのような状況なのか具体的にはわかりません。でも、当時のような教育体制で行われているのであれば、きっと博士は社会に対して大きな貢献をしてくれるはずです。

伊賀泰代著「採用基準」を読みました

伊賀泰代氏の「採用基準」を読みました。

採用基準

採用基準

キャリア形成コンサルタントの著者は、17年間マッキンゼー・アンド・カンパニーに務め、コンサルタント業務に5年間従事した後、コンサルタント採用業務に12年間従事しています。マッキンゼーという外資系企業に17年間も在籍するというのは、とてもとても長い経験です。この時の経験を通して、「これからの時代にグローバルビジネスの前線で求められるのは、どのような資質を持った人なのか」、「日本ではなぜそれらの資質が正しく理解できないのか」という点について書かれています。本書のタイトルは「採用基準」ですが、副題である「地頭より、論理的思考力より、大切なもの」のほうが内容を適切に表しています。

目次の中に書かれているので書いてしまいますが、これらの解として著者は「リーダーシップ」を挙げています。そして日本社会において理解されている「リーダーシップ」と、著者の考える「リーダーシップ」のズレについて指摘しています。

本書の大半では「マッキンゼーコンサルタントたちが、どのようにしてリーダーシップを身に付けているのか」、「リーダーシップを身に付けることで、どのように世界を変えることができるのか」ということが書かれています。マッキンゼーコンサルタントとして活動していた時のエピソードも書かれていますが、若干残念に感じたのは、臨場感を持ってそれらの経験を感じ取れなかった点です。守秘義務もあるため詳細が書けないという理由もあるかもしれませんが、マッキンゼーのような文化を持つ企業での経験が無い私には、著者が経験したことを臨場感を持って受け取ることができないのかもしれません。

本書の中で面白い視点だなと感じたのは「日本全体でのリーダーシップの総量が足りない」という表現です。確かに日本社会は強力なリーダーシップを持つ人物の登場を、ただ口を開けて待っているだけのところがあります。強力なリーダーシップは銀の弾丸で、すべての問題を瞬時にかつ何の摩擦も発生させることなく解決できると信じているところがあると思います。これらの問題の原因を、「日本全体でのリーダーシップの総量が足りない」という点においたのは、非常に興味深かったです。だから、リーダーになる人以外にもリーダーシップが必要で、小学校や中学校にリーダーシップに関する教育が必要なのだという主張にも共感が持てました。

著者と私とのバックグラウンドの違いからか、細かいところでは「それは違うんじゃないかな?」と感じる点もありましたが、このようにバックグラウンドの違う方の意見というのは、とても興味深いですしワクワクして読めますよね。


主題とは異なりますが、本書を読んでいて感じたのは、「著者はマッキンゼーという職場を愛しているんだな」ということです。すでに退職した職場のことを、これだけの愛情を持って語れるというのは素晴らしいことだと思います。私はこれまでに2つの企業を退職した経験を持っていますが、そこでの経験を著者のように愛情を持って語ることは残念ながらできません。この点については、私自身にも反省すべき点は多いのですが、単純に「羨ましいな」という印象を受けました。

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それはそうと、この本を読んでて何かが足りなかったんですよね・・・。うーん・・・。あっ!!

そんじゃーね!

参考:2011-09-27

「助けて」って言えますか?

みなさんが仕事や生活や人生に行き詰った時、誰かに助けを求めることはできますか?「助けて」って言えますか?
最近、このセリフを言わない人が増えているような気がするんですよね。根拠なんて無いし、本当に気のせいかもしれないけど。

こういう話をすると、生活保護の問題やセーフティネットの問題が真っ先に出てくることが多いのですが、実際そこまで切羽詰った話でなくても、「今やっている仕事が、自分の力だけでは間に合いそうにないから手伝って欲しい」とか「一人暮らしなんだけど、高熱が出た上に食糧がないから買ってきて欲しい」とか「大量の買い物に行くので、一緒に付いて来て欲しい」とか。頼まれたほうも、ちょっとの時間と手間を取られるくらいの話で。

与えられた仕事を完璧に実行することを目指して行動している人もいるし、他人に迷惑を掛けないように行動している人もいる。そういう目標を持って行動している人も素晴らしいと思うけど、その目標って命を懸けてまで守らなければならないことなのかな?その目標を達成できないことは、自ら命を絶つほどの絶望なのかな?そこのところがよくわからない。私は、それが命を懸けるような目標であるとは思わないし、"その程度のこと"で命を絶たれたほうが、助けを求められるよりも迷惑だ。

こういう問題の原因って、きっとひとつじゃないんですよね。本当に小さな様々な要因がミルフィーユのように積み重なって大きな壁になっている。だから、要因の一枚を取り去ったところで、壁は壁のまま残っていて問題はなかなか解決できない。特効薬は無くて、長い長い時間をかけて一枚ずつ問題の要因を取り除いていくしかないんだろうと思う。

なんてことを書いていたら、もっと深刻な問題が3年前にNHKで取り上げられていました。
NHK クローズアップ現代

適切に助けを求めるというのも、今後生きていく上で必要な能力なのかもしれない。
ホントに命は大切にしましょう。

日本に大学は多すぎる?

田中真紀子大臣がやらかしました。結局1週間で元の状態に戻りましたが、こんなことをやっていたら日本の信用がどんどん低下していきますよね。政権が変わったり大臣が変わったりしただけで、これまでの約束が反故にされるようでは、誰も長期的なプロジェクトに投資しようと考えなくなってしまいます。さて、この議論の中で、「日本に大学は多すぎる」という意見が出てきました。みなさんはどのように考えますか?

結論から言うと、私も日本に大学は多すぎると思います。
でも、学生の数はもっともっと増やして良いと思います。

大学が多すぎること(≒学生の数が多いこと)が、高等教育の質の低下に繋がっているかというと違うと思います。大学の数が高等教育の質の低下を招いているとすると、それは大学の学生定員が増加していることが原因ではなく、高等教育を行うにあったって適切ではない人材が教育を行っていることが原因です。つまり、大学の学生の定員が多いことが問題なのではなく、大学の教員の定員が多いことが問題なのです。これは、大学の先生のレベルが低すぎるということを言いたいわけではありません。研究者として求められる能力と、教育者として求められる能力は全然違うと思うのです。「優秀な研究者でありながら、優秀な教育者である」というのがそもそも無理な話で、普通はどちらか一つで十分です。今の大学は少し複雑な役割を担っていると思うんですよね。研究機関として成果を出し続けなければならないのと同時に、学生を教育して社会に送り出していかなければならない。この全く異なる役割を同じ人に行わせることに無理があるのです。

今回のは田中大臣の発言を受けてのエントリなので、研究機関としての大学ではなく、高等教育機関としての大学について書いていきます。


大学が多すぎると考える一番大きな理由は、大学の運営がとてつもなく非効率だからです。もっと大学を統合して効率的に経営すれば、必要なコストは抑えることができるんじゃないかと思います。それぞれの大学が広大な土地を用意して、立派な校舎を建てて、どこの大学にも共通して存在している設備を整えるくらいであれば、複数の大学を統合して一つにすると、共通設備は一つで足りてしまいます。特に単科大学であれば三校でも四校でも統合してしまえば良いと思います。これほどまでに統合による経済効果が大きい産業って珍しいと思います。これが大学が多すぎると考える理由です。

そして学生の数をもっともっと増やしても良いと考える理由。

1. 日本ってどんな社会を目指しているんだっけ?

教育を考える時、日本がどんな社会を目指しているのかを考えなければなりません。戦後から高度経済成長期であれば、とにかく現場で働く人が必要でした。貧弱な社会基盤を充実させ、経済的な発展をするために輸出産業を充実させ、そしてそれらを支える人を育てる。このような社会は、高等教育機関による教育よりも、現場による経験が重要でした。そもそも高等教育機関も少なかったですからね。そして日本は目標通りに社会基盤も充実し、経済的にも発展しました。

で、これから日本はどうするんでしたっけ?

もっともっと社会基盤を充実させるために、公共工事に従事する人を増やすのかな。輸出産業を支えるために、安価な労働力をたくさん世の中に送り出すのかな。違いますよね。
体系的に学問を学んで、新しい仕組みを作り出す人が必要なんですよね。そういう人を社会に送り出すためには、高等教育機関で教育を受けた人が必要なのです。だから、もっともっと学生を増やしたほうが良いのです。

2. 必要なのって経歴?それとも能力?

未だに学閥というものが跋扈している企業もありますが、私がこれまでに所属した企業では、同僚や上司や部下がどこの大学出身であるか興味はありませんでした。仕事を進める上で、そのようなものは関係無いからです。その人がどのような能力を持っていて、これから何ができるのかが重要だからです。きっと世の中全体としても、「○○大学卒という経歴」よりも、「何ができるのかという能力」を重視するようになっていくでしょう。

これからの日本に必要なのは、新しい仕組みを作り出す能力を持った人材です。決して「○○大学卒という経歴」だけを持った人ではありません。このような能力を持った人材を増やすためには、高等教育機関で体系的な教育を受けた人が必要です。

学生の質を一定以上に保つことを実現するための手っ取り早い方法は、成績の下位に所属する学生を切ってしまうことです。でも社会全体で見れば、裾野を広げることはとても重要です。裾野が広がれば、頂上のレベルも自然と上がってきます。

現在、貧困や格差の固定化が社会問題になっています。大学の定員数を絞ることで学生の質を保とうとするならば、貧困や格差の固定化を加速する原因にもなってしまいます。そういう点においても、学習意欲が高い学生には、高等教育を受ける機会を広げたほうが良いと思うのです。